あの恐怖表現は何故怖い?

なぜホラー漫画の『コマの枠線が崩れる、増殖する』描写は深い不安と恐怖を誘うのか?漫画表現の自己破壊と読者の知覚の混乱から読み解く

Tags: ホラー漫画, 表現技法, 心理学, 視覚認知, コマ割り, ゲシュタルト心理学, 予測符号化

導入:見慣れた枠線の崩壊が引き起こす恐怖

ホラー漫画を読んでいる際、時に私たちはコマを区切る「枠線」そのものが、不自然に歪んだり、増殖したり、あるいは異様な質感を持って描かれたりする場面に遭遇することがあります。このような描写は、物語の内容や描かれているキャラクターとは別の次元で、私たち読者に強い違和感や不快感、そして深い不安感を抱かせることが少なくありません。普段、無意識のうちに視覚情報の整理や時間・空間の区切りとして認識しているはずの枠線が、その役割を果たさず変質している。この記事では、このような「枠線」の異常な描写がなぜ読者に強い恐怖を感じさせるのか、そのメカニズムを漫画表現技法、心理学、認知科学といった多角的な視点から読み解いていきます。

分析・考察:形式の破壊と知覚への影響

1. 漫画表現技法における枠線の役割と破壊

漫画におけるコマの枠線は、単なる装飾ではありません。それは読者が物語を追体験するための、極めて重要な構造的要素です。

枠線が歪む、増殖する、消失するといった異常な描写は、これらの「当たり前」とされる枠線の役割を根本から破壊します。

2. 心理学・認知科学からの分析

枠線の異常な描写が読者に与える恐怖は、私たちの知覚や認知の仕組みに深く関わっています。

3. 視覚芸術からの分析

枠線は、視覚芸術における「フレーム」や「境界」の概念とも関連が深いです。絵画や写真のフレームが作品世界を限定し、鑑賞者との間に境界を設けるように、漫画の枠線も同様の役割を果たします。そのフレームが自らを破壊したり、内側からの圧力で歪められたりする様子は、制御不能な力や、内側からの異常なエネルギーの爆発を示唆します。また、増殖する枠線がパターンとして画面を覆い尽くす場合、それは抽象的な線やパターンとして、視覚的な圧力やノイズ、あるいは生命力を持った異形として知覚される可能性があります。これは、既存の「形」や「意味」が崩壊し、未知の、得体の知れないものが現れる恐怖に通じます。

結論:漫画の基盤を揺るがす恐怖

ホラー漫画におけるコマの枠線の異常な描写がなぜ読者に強い恐怖を誘うのか、その秘密は、読者が漫画を読む上で無意識的に拠り所にしている「枠線」という基盤を揺るがすメカニズムにあります。

枠線は視覚情報の整理、時間・空間の区切り、そして読者と物語世界を隔てる安全なフレームとしての役割を担っています。枠線が崩壊したり、増殖したり、異様な形で描かれたりすることは、これらの基本的な役割を破壊し、読者の無意識的な予測を裏切ります。これは、脳の予測符号化における予測誤差を大量に発生させ、知覚の混乱や不安を引き起こします。また、コマという閉じた領域の構造が不安定になることは、ゲシュタルト心理学における閉合の阻害につながり、視覚世界の基盤が揺らぐような感覚を与えます。さらに、枠線が破られる描写は、物語世界の異常が読者の安全な領域にまで侵食してくるかのような直接的な恐怖を喚起します。

このように、枠線の異常な描写は、単に描かれている内容だけでなく、漫画というメディア形式そのものの安定性を崩すことで、読者の知覚と認知に直接的に作用し、物語内容とは別の次元で深い不安と恐怖を効果的に引き出す表現技法と言えるでしょう。それは、私たちが当たり前だと思っている「枠組み」が崩れることへの根源的な恐れを刺激するのです。