なぜホラー漫画の『コマの枠線が崩れる、増殖する』描写は深い不安と恐怖を誘うのか?漫画表現の自己破壊と読者の知覚の混乱から読み解く
導入:見慣れた枠線の崩壊が引き起こす恐怖
ホラー漫画を読んでいる際、時に私たちはコマを区切る「枠線」そのものが、不自然に歪んだり、増殖したり、あるいは異様な質感を持って描かれたりする場面に遭遇することがあります。このような描写は、物語の内容や描かれているキャラクターとは別の次元で、私たち読者に強い違和感や不快感、そして深い不安感を抱かせることが少なくありません。普段、無意識のうちに視覚情報の整理や時間・空間の区切りとして認識しているはずの枠線が、その役割を果たさず変質している。この記事では、このような「枠線」の異常な描写がなぜ読者に強い恐怖を感じさせるのか、そのメカニズムを漫画表現技法、心理学、認知科学といった多角的な視点から読み解いていきます。
分析・考察:形式の破壊と知覚への影響
1. 漫画表現技法における枠線の役割と破壊
漫画におけるコマの枠線は、単なる装飾ではありません。それは読者が物語を追体験するための、極めて重要な構造的要素です。
- 視覚情報の整理と焦点化: 枠線は描かれた情報に明確な境界を与え、読者の視線を特定の範囲に誘導し、焦点を合わせやすくします。これにより、画面内の要素が整理され、情報を効率的に処理することができます。
- 時間と空間の区切り: コマとコマの間、そしてそれを区切る枠線は、時間の経過や場面転換、空間の移動を示唆します。読者はコマの配列と枠線によって、物語のテンポやリズム、そして次に何が起こるかを無意識的に予測しながら読み進めます。
- 「世界」のフレーム: 枠線は、描かれた物語世界と読者のいる現実世界を分ける「フレーム」としての役割も担います。読者は枠線によって隔てられた安全な距離から、物語世界を観察します。
枠線が歪む、増殖する、消失するといった異常な描写は、これらの「当たり前」とされる枠線の役割を根本から破壊します。
- 予測の裏切りとリズムの崩壊: 規則正しく配置され、一定のリズムを保つはずの枠線が乱れることで、読者の無意識的な予測が裏切られ、読み進めるリズムが崩壊します。これは、次に何が起こるか分からないという強い不安感につながります。
- 情報の無秩序化: 枠線が曖昧になったり、増殖したりすることで、画面内の情報が整理されず、どこに注目すればよいか、何が重要なのかが分かりにくくなります。情報の過多や欠落、そして情報の境界が不明瞭になることは、脳に負荷をかけ、混乱や不快感を生じさせます。
- 「世界」の侵食: 枠線が崩壊したり、キャラクターや異形が枠線を破って描かれたりする描写は、「安全なフレーム」が破られ、物語世界の異常や恐怖が読者の側にまで侵食してくるかのような感覚を与えます。これは、読者が傍観者ではなくなり、恐怖の対象に直接晒されるような心理的効果を生み出します。
2. 心理学・認知科学からの分析
枠線の異常な描写が読者に与える恐怖は、私たちの知覚や認知の仕組みに深く関わっています。
- 予測符号化理論(Predictive Coding): 近年の脳科学で注目されるこの理論によれば、私たちの脳は常に外界に関する予測を立て、実際の感覚入力との「予測誤差」を最小化するように知覚を形成します。漫画を読む際、脳はコマの構造や枠線のパターンから無意識的に次の情報を予測しています。枠線の異常は、この予測を大きく裏切る「予測誤差」を大量に発生させます。脳はこの誤差を処理しようとしますが、うまくできない場合に混乱や強い違和感、不安といったネガティブな感情が生じます。
- ゲシュタルト心理学における「閉合」: 人間は視覚的な断片をまとめて、意味のあるまとまり(ゲシュタルト)として知覚しようとします。特に、閉じられた領域を一つの単位として認識する「閉合」の法則は重要です。コマの枠線はまさにこの「閉合」を助け、コマ内を一つのまとまりとして認識させます。枠線が崩れたり消失したりすると、この「閉合」が阻害され、コマという単位が不安定になります。これは、基盤となる構造が揺らぐような、根源的な不安感を引き起こします。
- 知覚の恒常性の崩壊: 私たちは、たとえ視覚入力が変化しても、対象物の大きさや形、明るさなどを安定したものとして知覚する傾向があります(知覚の恒常性)。漫画の枠線も、通常は安定した構造として認識されています。その枠線が不安定に変化することは、まるで視覚世界そのものが歪んでしまったかのような感覚を与え、知覚の恒常性が崩れたことによる混乱と恐怖を生み出します。
- 形式と内容の不一致: 枠線という「形式」が、通常とは異なる、あるいは物語の内容(異常性や恐怖)を直接的に反映するような形で描かれることは、「安全な形式の中に収まっているはず」という無意識的な期待を裏切ります。これは、形式と内容の不一致による不気味さや不安につながります。
3. 視覚芸術からの分析
枠線は、視覚芸術における「フレーム」や「境界」の概念とも関連が深いです。絵画や写真のフレームが作品世界を限定し、鑑賞者との間に境界を設けるように、漫画の枠線も同様の役割を果たします。そのフレームが自らを破壊したり、内側からの圧力で歪められたりする様子は、制御不能な力や、内側からの異常なエネルギーの爆発を示唆します。また、増殖する枠線がパターンとして画面を覆い尽くす場合、それは抽象的な線やパターンとして、視覚的な圧力やノイズ、あるいは生命力を持った異形として知覚される可能性があります。これは、既存の「形」や「意味」が崩壊し、未知の、得体の知れないものが現れる恐怖に通じます。
結論:漫画の基盤を揺るがす恐怖
ホラー漫画におけるコマの枠線の異常な描写がなぜ読者に強い恐怖を誘うのか、その秘密は、読者が漫画を読む上で無意識的に拠り所にしている「枠線」という基盤を揺るがすメカニズムにあります。
枠線は視覚情報の整理、時間・空間の区切り、そして読者と物語世界を隔てる安全なフレームとしての役割を担っています。枠線が崩壊したり、増殖したり、異様な形で描かれたりすることは、これらの基本的な役割を破壊し、読者の無意識的な予測を裏切ります。これは、脳の予測符号化における予測誤差を大量に発生させ、知覚の混乱や不安を引き起こします。また、コマという閉じた領域の構造が不安定になることは、ゲシュタルト心理学における閉合の阻害につながり、視覚世界の基盤が揺らぐような感覚を与えます。さらに、枠線が破られる描写は、物語世界の異常が読者の安全な領域にまで侵食してくるかのような直接的な恐怖を喚起します。
このように、枠線の異常な描写は、単に描かれている内容だけでなく、漫画というメディア形式そのものの安定性を崩すことで、読者の知覚と認知に直接的に作用し、物語内容とは別の次元で深い不安と恐怖を効果的に引き出す表現技法と言えるでしょう。それは、私たちが当たり前だと思っている「枠組み」が崩れることへの根源的な恐れを刺激するのです。