なぜホラー漫画の『コマ間の空白(ゴッター)』は深い不安と恐怖を誘うのか?情報補完と時間操作から読み解く
ホラー漫画における「見えない」空白の恐怖
漫画を読んでいる際、私たちは無意識のうちにコマとコマの間に存在する空白、通称「ゴッター」を読み飛ばしています。通常、このゴッターは時間経過や場面転換といった物語の流れをスムーズに繋ぐ役割を果たします。しかし、ホラー漫画においては、この見慣れた空白が、読者に強い不安や恐怖を誘う重要な要素として機能することがあります。
単なる空白であるはずのゴッターが、なぜ私たちの心に unsettling な感覚を呼び起こすのでしょうか。本稿では、このホラー漫画におけるゴッターの恐怖表現の秘密を、情報補完の心理、時間知覚の操作、そして漫画表現技法の観点から深く掘り下げて解説します。
ゴッターが恐怖を誘うメカニズム
ホラー漫画におけるゴッターの恐怖効果は、いくつかの心理的・認知的メカニズムによって説明できます。
1. 情報の欠落と補完作用による不安の増幅
人間の脳は、提示された断片的な情報から全体像を構築しようとする強い傾向があります。これは認知心理学における「ゲシュタルト崩壊」の対義語として捉えることもできる、積極的な意味構成のプロセスです。漫画のゴッターは、前のコマと次のコマの間で何が起きたのか、あるいは何が隠されているのかという「情報の欠落」を生み出します。
特にホラーシーンにおいて、この情報の欠落は読者に強い不安を与えます。脳は欠落した情報を埋めようと試みますが、その際に最も恐ろしい可能性を想像する傾向があるためです。視覚的な情報が遮断されることで、読者の内面的な想像力が活性化され、現実よりもさらにグロテスク、あるいは不可解な事態を脳内で補完してしまいます。これは、暗闇が怖い理由とも通底しており、見えない部分にこそ恐怖の対象が存在するのではないかという根源的な不安を突くものです。ゴッターは意図的にこの「見えない部分」を作り出し、読者の想像力を恐怖の方向へと誘導するのです。
2. 時間知覚の操作による予測不可能性
ゴッターのもう一つの重要な役割は、時間経過の表現です。通常の漫画では、ゴッターの幅や、前後のコマの内容によって、数秒から数日、あるいはそれ以上の時間の流れを示唆します。しかし、ホラー漫画ではこの時間知覚が意図的に操作されることがあります。
例えば、直前のコマでキャラクターが危機的な状況に直面し、次のコマで突如として状況が一変している場合、その間のゴッターは非常に短い時間を示唆しているにも関わらず、読者には「何が瞬時に起きたのか分からない」という感覚を与えます。この時間的な飛躍と情報の欠落が組み合わさることで、事態の急変に対する驚愕と、その間に起こったであろう恐ろしい出来事への想像が同時に働き、強い恐怖感を呼び起こします。
また、非常に長いゴッターを挟んで、次のコマで僅かな変化だけを描写する場合もあります。これは、静寂や「溜め」の演出として機能し、来るべき恐怖に対する緊張感を極限まで高めます。時間の経過が遅く感じられることで、読者はその「空白の時間」に不吉な予感を抱き、次のコマで何が現れるかという予測不可能性に苛まれるのです。ゴッターは、単なる時間の経過を示すだけでなく、時間の「質感」や「重み」を表現し、読者の時間知覚を歪めることで恐怖を演出します。
3. 漫画表現技法としての意図的な設計
ゴッターの幅や形状そのものが、視覚的な不快感や不安を誘うケースもあります。例えば、ゴッターが不自然に太かったり、歪んでいたり、あるいはコマの形状に合わせて非対称になっていたりする場合です。漫画におけるコマとゴッターは、本来、整然としたグリッド構造を形成することで安定した視覚体験を提供します。この慣れ親しんだ構造が崩れることは、視覚的な違和感や不安定感を生み出し、それが心理的な不安へと繋がります。
また、ゴッターを意図的に活用することで、ショック効果を高める演出も可能です。例えば、直前のコマで何か恐ろしいものの一部だけを見せ、ゴッターを挟んで次のコマでその全体像を提示する、といった技法です。この場合、ゴッターは単なる空白ではなく、読者の期待感と恐怖を増幅させるための「間」として機能します。読者はゴッターを見ながら、次のコマで何が描かれるかを想像し、その想像が現実となる瞬間に強い衝撃を受けるのです。これは、視覚芸術におけるリズムや対比の概念とも関連しており、ゴッターがページ全体の視覚的な流れの中で重要なアクセントとなっていることを示唆しています。
結論:見えないからこそ怖い空白
ホラー漫画におけるコマ間の空白、ゴッターは、単にストーリーを繋ぐための機能的な要素ではありません。それは、意図的に情報の欠落を生み出し、読者の想像力を恐怖の方向へと誘導する仕掛けであり、時間知覚を操作して予測不可能性や緊張感を高めるツールです。
読者はゴッターという「見えない」空白を通過する際に、自らの内にある恐怖を刺激され、想像力によってその空白を埋めようとします。そして、その補完されたイメージこそが、時に描かれた絵そのものよりも強く、心に突き刺さる恐怖となるのです。ゴッターは、漫画という視覚媒体における「間」の芸術であり、読者の認知プロセスに直接働きかけることで、独特の深い不安と恐怖を創出する、ホラー漫画の隠されたメカニズムの一つであると言えるでしょう。