なぜホラー漫画の「空間を覆う抽象的な線やパターン」は深い不安と恐怖を誘うのか?知覚の混乱と非対称性から読み解く
ホラー漫画には、物語上の具体的な意味を持たないように見えながらも、読者に強い不気味さや不安、時には生理的な不快感をもたらす独特の表現があります。その一つに、空間や物体を異様なまでに覆い尽くす抽象的な線やパターン描写が挙げられます。渦巻、無数の平行線、不定形な網目模様など、それらは時に背景となり、時に画面全体を侵食し、静かに、しかし確実に読者の心に恐怖を植え付けます。この記事では、こうした抽象的な線やパターンがなぜ怖いのか、そのメカニズムを多角的な視点から探求します。
異様な線やパターンが引き起こす視覚と認知の混乱
ホラー漫画における抽象的な線やパターンは、しばしば現実には存在しない、あるいはその場にあるべきではない形で登場します。壁や地面が規則性のない模様に覆われたり、人物の肌や物体が奇妙な線で変容したりといった描写です。このような表現は、まず読者の視覚に直接的に訴えかけます。
私たちの脳は、視覚情報からパターンや構造を読み取り、世界を理解しようとします。これは、ゲシュタルト心理学で研究される「プレグナンツの法則(良い形への傾向)」にも見られるように、単純で安定したまとまりを知覚しようとする働きです。しかし、ホラー漫画に描かれる抽象的な線やパターンは、この働きを意図的に阻害するように作用します。
例えば、細かく密集した線や不規則な網目模様は、視覚的な情報過多を引き起こし、脳が情報を効率的に処理することを困難にさせます。パターンを見出そうとしても見つけられない、あるいはそこに何らかのパターンがあるように見えるが意味をなさない、といった状態は、認知的な不協和を生み出し、不確実性や混乱、そしてそれに伴う不安へと繋がります。
また、これらのパターンが持つ非対称性や予測不可能性も重要な要素です。自然界や人間の身体、あるいは日常的な人工物は、ある程度の対称性や規則性を持っています。極端な非対称性や、どのような法則に基づいているか全く予測できないパターンは、私たちの知覚に不自然さ、異質さ、そして生理的な不快感を与えます。これは、「不気味の谷」現象が、人間や動物の形態から逸脱したものが不気味に感じられることと類似したメカニズムであると考えられます。日常の「良い形」から逸脱した視覚情報は、私たちの安全な世界認識を揺るがすのです。
意味の剥奪と日常の異化
抽象的な線やパターンが怖い別の要因は、それが本来の意味や機能を喪失させ、日常を異化する効果にあると考えられます。例えば、見慣れた部屋の壁が不気味な模様に覆われることで、その部屋はもはや安全な日常空間ではなくなります。人の顔が意味不明な線で変容すれば、それは人間としてのアイデンティティを失い、異形へと変わってしまったかのように見えます。
これは、対象物からその本来持つべき意味やコンテクストが剥奪され、抽象的な視覚情報そのものが前面に出ることで起こります。私たちは、目の前の情報が何であるか、それがどのような意味を持つのかを理解することで、安心感を得ています。しかし、抽象的な線やパターンは、その「何であるか」「どのような意味を持つか」という問いへの答えを曖昧にします。対象が「何かわからないもの」「理解できないもの」へと変容することで、読者は強烈な不安感と、場合によっては嫌悪感を抱くことになります。
漫画の表現技法としては、こうした抽象パターンを特定のコマで強調することで、その瞬間における異質性や危機感を際立たせる効果があります。また、人物の感情や精神状態の異常を視覚的に表現するために、周囲の空間や人物自身に抽象的なパターンを描写することも有効です。これは、内面的な混乱や狂気を、具体的な意味を持たない視覚情報として外在化する手法と言えます。
結論:認知的な「穴」としての抽象パターン
ホラー漫画における抽象的な線やパターン描写は、単なる視覚的なノイズではありません。それは、私たちの脳がパターンを認識し、意味を理解しようとする基本的な認知メカニズムを揺さぶり、混乱と不確実性を生み出すことで恐怖を誘発します。非対称性や予測不可能性といった視覚的な特性は、生理的な不快感や異質感を際立たせます。
そして、これらのパターンが日常的な空間や物体に侵食することで、対象の持つ意味が剥奪され、見慣れた世界が異質で理解不能なものへと変容します。これは、私たちの安全な世界認識にぽっかりと開いた認知的な「穴」のようなものであり、そこに潜む得体の知れないものへの根源的な不安を呼び覚ますのです。
このように、ホラー漫画における抽象的な線やパターンは、視覚芸術の手法と人間の認知・心理の特性を巧みに利用することで、読者に深い不安と恐怖を刻みつける強力な表現と言えるでしょう。それは、論理的な理解を超えた場所で、私たちの感性に直接訴えかけてくるのです。